日本の快進撃で大盛り上がりを見せている、ラグビーワールドカップ2019日本大会!
初のベスト8進出はなるのか?グループリーグ最後のスコットランド戦は注目の一戦ですね~。
実は、そのラグビーワールドカップ日本招致の立役者といわれている、故・奥克彦さんは、県高こと県立伊丹高校ラグビー部出身らしい!
奥克彦さんについては、Yahoo!ニュースにかなり詳しい記事が載っていました。
【特集】ラグビーW杯招致の立役者 ラガー外交官・奥克彦の生涯
(読売テレビ「ウェークアップ!ぷらす」|Yahoo!ニュース)
奥克彦さんは宝塚市出身で、県立伊丹高校ラグビー部に所属、2年生時の昭和49年には第54回全国高校ラグビーフットボール大会の兵庫県代表として花園に出場しました。
その後進学した早稲田大学でもラグビー部として活躍するのですが、外交官になる夢をかなえるため、2年生の時にラグビー部を退部。
そして外務省に入省した後、研修のため留学したオックスフォード大学でもラグビーを続けます。
帰国した後も外交官として活躍しながら、早稲田ラグビー部OBだった森喜朗首相(当時)にラグビーW杯の日本開催を訴えるなど、日本への大会招致のために奔走します。
そんな中の2003年11月、人道支援のために向かったイラクでの活動中、車で移動中にテロ集団の銃撃に遭い、非業の死を遂げたのです。
しかしその後、奥さんが招致を訴え続けた森元首相らがその遺志を受け継ぎ、ついに2009年、アジアで初となるラグビーW杯の日本開催が決まったのでした。
さて、そんなW杯日本招致の立役者、奥克彦さんの県高ラグビー部の同級生の方からお話が聞けるということで、やってきました県立伊丹高校。
やってきたのは10月6日(日)。この日は「第11回県立伊丹高校ラグビーカーニバル」が開催されていました。
校庭に大小5つのグラウンドを設け、伊丹・尼崎・宝塚の各ラグビースクール・西宮ラグビー少年団から、幼稚園・小学1年生~6年生までの園児・児童たちのチームが試合を行っていました。
ちなみに幼稚園児と小学1・2年生はタックルの代わりに体に着けたタグを取り合う「タグラグビー」で対戦。
上級生になると、スクラムも本格的。
校舎の下では保護者の皆さんによる模擬店も出ていました。バザーや、
焼きそばや豚丼、ドリンク類の販売もあって、長い行列ができていました。
豚丼150円は安い!
この日はとなりの自衛隊伊丹駐屯地の記念行事がありましたので、こんな一コマも。
自衛隊ヘリとのコラボは県高ならではの光景ですね。
本部テントの横に「ラグビーワールドカップを日本に読んだ男 伊丹高校ラグビー部28回生 奥克彦」の展示コーナーがありました。
県立伊丹高校ラグビー部28回生で、奥克彦さんの同級生でもある、長者原 悟(ちょうじゃはら・さとる)さんに、いろいろお話を伺ってみました。
ー長者原さんや奥さんがいた時の県高ってどんな高校やったんですか?
当時の県伊は服装も自由だったし、自由な校風だったんですよね。自由だし学生が何でも自分たちのやりたいことをやろうという校風があったのね。校則に縛られるとか、なんにもなかったね。面白い先生もたくさんいましたよ、個性的な先生が。だからそういうのが、なんとなくいい時代っていうかね。
ー高校時代の奥さんって、どんな感じの生徒でした?
彼は頭もいいし優秀なんだけど、とにかくどんなことでも先頭を切るというか、リーダーシップが強かったですよね。
「県伊祭」という文化祭を毎年やってるんですが、生徒たちだけで楽しむんではなくて、地域の人たちとも交流するために、バザーとか模擬店もやったりするんですね。そうするとみんな、地域の人たちにどうやったら喜んでもらえるか、いろいろ考えるじゃないですか。そういう中でも彼は目立ってましたね。
周りの変な理屈に反抗するとかそういうわけじゃないんだけど、理不尽に思えることに対してもバーンと意見が言える人でしたね。
ー県高が全国大会で花園に出たのは何年やったんですか?
僕が2年生の時ですから、54回大会ですね。確か今年の大会が99回やったから…もう45年前やね。
ーその時のチームって、どんなチームだったんですか?
とにかく小さかったね。僕らのやってる頃って、みんな体重60キロあるかないかで、今の高校生のレベルで考えたら考えられないぐらいに小さかったし、まあ全国大会に出た32代表のうち、平均体重・平均身長ともに最低ですよ。
それでもフォワードは強くないといけないんですよね。ボールを支配しないといけないから。だから僕らは少ない人数でもうとにかくボールを早く出して、展開を早くして、走って走って走りまくりましたね。
僕らが1年生で入った時、実は3年生が1人しかいなかったんですよ。だからその1年生と2年生中心のチームになったんですけど、3年生がいない分、そのまま2年間同じチームでやれるから、コミュニケーションは取れてましたよね。どうしても入れ替わりがあると、戦術面とか新しくやり直さないといけないしね。それが良かったんだと思います。
全国大会出場時の入場行進の様子。前から2番目の背が高い選手が奥克彦さん。
ーその時の奥さんのポジションは?
センターです。背番号12番。インサイドセンターですね。
彼は体が大きくて、背が高かったんです。
プレーとしてはフォワードがボールを早く出して、バックに回して走るんだけれども、そこで奥君が前に突っ込むんです。でそれをきっかけにして素早く出して外へ展開していくと、向こうのディフェンスの体勢が整わないんです。それで人数の差ができるところを、足の速い選手が抜けていくんです。
その時、奥君が突っ込むタイミングを相手に分からせないためにサインを出すんですけど、「電気屋!」っていうんです。彼の実家は電気屋だったんでね。
あの頃は面白いサインがありましたよ。スクラムハーフから右へ展開して走る時はお酒の名前を言うんですよ。左に展開するとき時はタバコの銘柄をいうとかね(笑)。右手でコップを持つでしょ。タバコを吸うときは左手で持つからね。今やったら問題になるやろけどね(笑)。
ー走って走って走り抜くラグビーで県大会を勝ち進んでくわけですが、とはいえ兵庫県もチーム数が多いですから、勝ち進んでいくのは大変だったんじゃないですか?
新人戦で始まって、6月に国体予選があって、その後全国大会予選があるんですけど、その年は公式戦は全勝でしたね。唯一引き分けやったのが国体予選の準決勝で、関学に引き分けで抽選負けしたんです。ラグビーの場合は同点の場合抽選になるんです。決勝戦だけは抽選がなくて、両校優勝になるんですけど。当時キャプテンだった阪本さんが抽選を引いたんですけど、それで負けてしまって、みんなから「何しとんねん!」って突っ込まれてね(笑)。
でも結果的には公式戦は1分け以外全勝なんです。練習試合も負けなかったですね。その年度は。だからそれだけまとまったいいチームでしたね。
その年の県大会の決勝戦は神戸高校が相手だったんだけど、試合終盤まで6対4で、ほぼ神戸高校の勝ちの試合だったんです。その時、相手のスタンドオフ(SO)がけがをして、2年生の選手に代わったんです。こちらとしては向こうのSOは2年生だから、そんなにプレイがうまくないだろうと考えたわけです。その中でウイングバックの安原さんがポジションを変更させて、相手の出したパスをインターセプトをするわけなんですよ。
ーそのインターセプトから逆転したんですね。
そうです。それで8対6で逆転勝ちしたんです。
ーたった一つのプレーが試合を左右するんですね~。
ラグビーの場合は監督がグラウンドで直接指示をだせないから、自分たちで考えなきゃならない。そこを上級生たちは自分たちでどう判断して切り抜けていくか、どう試合を持っていくかっていうのを判断していったわけです。キャプテンの阪本さんを始め、上級生の人達はやっぱりすごかったですね。常に冷静に対処してね。
ーその頃の奥さんにちなんだエピソードとかって覚えてます?
ちょっと面白い話といえば、2年生の時修学旅行があったんですけど、スケジュール的に帰ってくるのが金曜日で、翌日の土曜日が全国大会予選の1回戦だったんですが、ラグビー部のみんな行ったんですよ。あとで聞いてみたら他の高校の2年生は、全国大会に向けてみんな練習するから一切修学旅行に行ってなかったらしいんです。周りから「お前ら修学旅行行ったらしいな!?」って言われたんですが、それでも僕ら勝ったからいいじゃないですかってね(笑)。
その時でも奥君は修学旅行にボール持って、空気入れ持っていったんで、僕ら毎朝練習してたんです。 朝早く起きて走るんですけど、まあ、みんなそんなんしたくないですよね。で、1日目なんかは部屋に鍵かけたりしないから、彼が起こしに来るんですよ。で起こしに来るって分かったから、次の日から部屋の鍵かけてね。来させんようにしたんです。そうしたら彼はベランダから来ましたよ(笑)。「お前らの考えることはようわかってるんや」って(笑)。
ー卒業後は早稲田大学に進まれるわけですよね?
そうですね。東大をうけたんだけど落ちてしまってね。
早稲田に行ってもラグビーをやるんだけど、怪我をしたこともあるし、外交官試験を受けるためにラグビー部を2年生でやめてしまうんですね。そこで猛勉強して、結果合格するんだけれども、当時は外交官試験って東大出身者以外通らなかったんですよ。だから彼がおそらく初めて、早稲田出身者で外交官試験を合格した人ですよ。
そのあと外務省に入って、イギリス赴任中に研修生としてオックスフォード大学に入って、そこでもラグビー部に入るんだけれども、うまい人がたくさんいるから、そんなに簡単には入れるわけじゃないんですよね。でも彼は人脈をうまく使って、当時の早稲田でラグビー部の監督をしていた、大西鐵之祐さんという有名な方がおられたんですが、その人に手紙を書いてもらうんですよ。で、その手紙をもってオックスフォードのラグビー部の扉をたたくわけですよ。
実際、そんなことで入れるのかどうかはわかりませんけど、要はそれがいいとか悪いじゃなくて、彼はそういう努力を怠らないって言うか、やれることは何でもしようという感じなんですよ。イギリスの大学でラグビーやるのであれば、オックスフォードでやりたいと。その自分の夢に近づくためにはどうすればいいかと、すごく勉強しましたよね。
そして彼は、オックスフォード大のラグビー部の日本人で初めてのレギュラーになるんですよね。
当時はケンブリッジ大学との対抗戦に出た選手は、「ブルー」という称号を与えられるんです。本当ならば彼は日本人で最初に「ブルー」の称号をもらうはずだったんですよ。ところが彼は外務省の役人ですから、どうしても外せない仕事が入ってしまった。だから彼はラグビーの試合に出られず、ブルーの称号ももらえなかったんです。だからそれをものすごく残念がってましたね。
ーその頃からどうすればワールドカップを日本で開催できるか?ということを考えられてたわけですよね。
どうやったらできるかいうよりも、「絶対にやれるんだよ!」という強い気持ちを持ってましたよね。わからないなりに彼は、当時の首相で早稲田ラグビー部のOBだった森喜朗さんとか、いろんな人を巻き込んでいってね。もう行動力は無茶苦茶ありますから、うまいですよ。彼はね。
ーその当時は誰も日本でワールドカップができるとか考えてないわけですもんね?
できるかどうかというよりも、当時の日本のラグビーがそのレベルまで達してなかったわけですからね。彼がどれだけ言っても、それは無理ちゃうの?みたいな話ですよ。
彼の話を聞いてみると、本当は2011年に大会を呼びたかったみたいなんですね。でもその時じゃなくて逆に良かったんじゃないかなと。やっぱり国が本腰を入れてやってくれるようになったし、日本のラグビーも強くなってきたしね。
校庭の一角にある「アメリカフウ(カエデ)」の木。奥さんの功績をたたえて植樹されたものらしい
ーやっぱり奥さんの功績っていうのは大きかったんですねー。
やっぱりそういうのがありながらもその部分に感じ入って、周りの人たちが色々な形で応援してくれるのが、非常にそういう意味では大きかったですよね。清宮さん(日本ラグビー協会 副会長・清宮克幸さん)や、いろんな方とのパイプというのか。
だから過去にはこの県伊丹にもエディー・ジョーンズ(前日本代表ヘッドコーチ)が2回来てくれてますからね。清宮さんも来てくれてますからね。
ーやはり森喜朗さんとも、そういうつながりの中でということなんですね?
そうですね。彼が日本に帰ってきたときにちょうど森さんが首相でしたからね。
もちろん森さんとのつながりがあったから、ワールドカップの招致の話も進んだんだと思いますけど、彼は外交官だったんで、ヨーロッパ圏というかラグビーが盛んな地域の人たちや、外交官同士でミニゲームをしたりとか、そういったことで交流を図ったことも結構あったみたいですから。
実は外務省に入ったあと、省内での不祥事の責任を取らされる形で、一度日本に戻ってきてるんですよね。でその後イギリスへ行ってるですけど。だから彼はその後、イラクの復興支援に自ら志願して行きましたけど、彼にしてみたらその不祥事の一件から挽回したいという気持ちがものすごくあったんでしょうね。
ラグビー部第28回生による、奥さんを偲ぶ石碑が建てられていました
ー与えられたところで全力でやるからこそ、そのピンチをチャンスに変えることができるということですね。
彼が人間的に素晴らしいと思ったのは、僕なんか高校の時からの付き合いなんですが、当時と接し方が変わらないんですよね。だって外務省に入って、オックスフォードにも進んでるし、何か雲の上に行っちゃったみたいな感じやないですか。そうなると、連絡なんかするのもどうかなあって思いますよね。だけど全然そういうのがないんですよ。
だから東京に出張に行くとき、飯でも食おうよって連絡して、新橋なんかで待ち合わせて、彼は来るんですけど、部下5人ぐらい連れてくるんですよ(笑)。ご飯は一緒に食べるんだけど、結局そんな部下がいたら仕事の話をしてますよね。そんなん俺おらんでもええやん(笑)、って思うんやけど、彼は飯食おうよっていうから飯食いに来たんだって、全然そういうなんか偉ぶる感じでもなくて。ちょっとみんなおるけどいい?って感じで。とにかくそういう感じで用事があっても遅くなっても来ると。
青山の官舎に彼の家があったんですけど、ラグビーの試合見に行くために彼の家に泊まったりしましたね。せっかくのお休みで、まあ本人もラグビー観に行くんやけどね(笑)。子供さんたちもお父さんと遊べると思ってるのにね。またラグビー行くんだみたいなね。そういう意味では逆にご家族に申し訳なかったなと思いますよ。
ーこのラグビーカーニバルというのは何がきっかけで始まったんですか?
やはり奥の銃撃の事件があってからですね。彼が中心となって人の輪が広がってきた、その輪を途切れさせないように、と坂本さんが中心になってやっているんです。
やっぱり子供達がグラウンドで走ってくれて、将来何年続けてくれるかは分からないですけど、ラグビーの素晴らしさを分かって頑張って続けてやってほしい、それが目的ですね。友達を作るということでもね。
また11月24日に「奥カップ」というのも別でやるんですよ。その時は中学生クラスを対象にしてやります。
ー奥さんはこの日本でのワールドカップ、見たかったでしょうね~。
もちろんそうだと思いますよ。「だからやればできたじゃないか!」と多分笑ってますよ。「ほらできただろう?」ってね。そういうタイプですよね。きっと「俺がやったんだ」と偉ぶらないと思いますよね。そんなこと絶対に言わないタイプですから。やればできるんだよっていうタイプですから。
信念というか強い気持ちを持ってたんですよね。それがラグビーを通じて彼が養ってきたことだと思いますね。
石碑の裏には「日本を想い イラクを翔けた」と文字が彫られていました。
奥克彦さんの諦めない、そして「絶対にできる!」という強い思いが、当時無理だと思われていた日本でのワールドカップ開催につながったんですね。
さあいよいよ、日本代表がベスト8進出をかけてスコットランドとの一戦に臨みます。
奥さんは空の上から「日本はできるんだよ!ほらできただろう!?」って笑顔で応援しているに違いありません。
[インタビュー&文・たっきー@ECHO]