伊丹の夏祭りで長年踊られてきた定番曲といえば?
そう「ビューティフルサンデー」!
今年も「伊丹ふれあい夏まつり」に来場された田中星児さんに、ITAMI ECHOが独占インタビューに成功!
「ビューティフルサンデー」を伊丹で歌うことになったきっかけから、リリース当時の話、デビュー秘話まで、いろいろなお話をきくことができました。
2019年7月29日(月)
クロスロードカフェにて取材
「ビューティフルサンデー」で盆踊り?ホントにびっくりしました
―昨日(注:インタビュー日は夏まつりの翌日)はお疲れさまでした。
こちらこそありがとうございました。
ー田中さんが来られるようになって4年目になりました。昨日の感想はいかがでしたか?
昨年までは「ビューティフルサンデー」と2曲くらいを歌って、後半でまた「ビューティフルサンデー」を何回か歌うという構成だったんですけど、今年はいろんな曲を歌わせてもらって、ミニコンサートぽくなりましたね。
―昨日は何曲歌われましたか?
「ビューティフルサンデー」のほか、「オリーブの首飾り」「切手のない贈り物」「おにのパンツ」「北風小僧の寒太郎」「トップ・オブ・ザ・ワールド」ですかね?
―その中でもやはり「おにのパンツ」「北風小僧の寒太郎」は皆さんよくご存じですよね。
NHK『みんなのうた』で放送された曲は、皆さんの体に染みついていますよね。
―毎年「ビューティフルサンデー」を歌いに来ていただいていますが、この曲が盆踊りで使われているというのはご存じでしたか?
ホントに4年前まではこうやって伊丹で踊られているっていうのを知らなくて。最初に聞いたときは「ホントかな!?」って思ったんですよ。
―僕もずっと伊丹に住んでいますが、伊丹市民は「ビューティフルサンデー」って普通に盆踊りでやっていると思っていて、逆に伊丹以外ではほとんど踊られていないということを知らなかったんですよね。田中さん自身がこのことを知られたのは何がきっかけだったんですか?
朝日新聞記者の阿久沢さんという方から「伊丹でビューティフルサンデーが盆踊りで使われている」と電話で取材を受けて、それで知ったんですよ。
―ご自分の歌で盆踊りを踊っていると聞かれたときは、どう思われました?
実際のところあまり現実味がなくて、自分の知らないところでそんなことがあるのかと思ってね。伊丹でみんな踊ってくれているというのを聞いて、ホントにびっくりしましたね。
盆踊り自体、自分も長い間ご無沙汰でしたし、近所の盆踊りとかにも行かないですし。
―普通、盆踊りといえば「○○音頭」とか、そういう感じの曲が多いですよね。でも「ビューティフルサンデー」といえば洋楽のカバー曲ですし、そんな曲で踊るってなかなか想像できないですよね?
ボクもそう思いましたけど、ちゃんとお囃子も入りますしね。あー、こういう感じになるんだ、うまいことやるなあって思いましたよ(笑)。
―新聞の取材をきっかけに伊丹で踊られているというのを知られたということですけれど、実際に伊丹に来られることになったのは何がきっかけだったんですか?
どうもその記事をきっかけに、ボクを伊丹に呼んで「ビューティフルサンデー」を歌ってもらおう、ということになったらしく、電話で連絡をいただいたんです。
―その連絡をもらってから、実際に行ってみようと思われたのはどうしてですか?
やっぱり40年以上も踊り続けていただいているということで、そこで生歌を聴いていただいたら、皆さんどんな顔をされるのかなという、興味もありましたね。
―実際に来られてみて、どうでした?
来てみたらボクが思っている以上に、皆さんが本当に親しんでくれているんだなあ、というのが実感で分かりましたね。
小さい子どもから、おじいちゃんおばあちゃんまでみんな踊っていましたからね。あんな難しい踊りをね、みんなステップ踏んで、手拍子して。
―伊丹には4年前に初めて来られたわけですけど、それまで櫓の上に上がられた経験というのは?
昔には何度か上がった記憶はありますけど、「ビューティフルサンデー」だけでっていうのは初めてでしたね。
―1年目の時、田中さんが出演される前にすごい夕立が降りましたよね?
それはボクもすごい印象に残っています。すごいカミナリも鳴っていましたよね。
―あの時は我々も無事にできるのかな、と思って心配していたんですが。
でもあの後パーっと晴れてね。よかったですよね。
―実際に櫓の上に上がられたときはどんな印象を持たれましたか?
細い階段を上がってね、ああ中ってこんな感じになっているんだって。あと何せ暑かったですね(笑)。法被を着るんですけど、あれがまた暑いんです。
―櫓の上に登られた瞬間、下がすごい人だったじゃないですか。あの風景を見られて、どう思われました?
なんか恥ずかしかったですね(笑)。久しぶりの野外でしたし。それに普通のステージだとお客さんは前だけですけど、盆踊りって周り全部が人じゃないですか。これは初体験でしたね。
―周りでも、まさか田中星児さんの生歌で踊れるなんて思っていなかった、という方が多かったですね。実際に櫓で歌われて、その下でたくさんの人が踊っているという風景を見て、どう思われました?
すごく感激したなあ、というのを覚えていますね。
「ビューティフルサンデー」って簡単な歌ですし、歌詞もすごく単純なんですけれども、みんな覚えてくれてね。1年に1回のことなのに、一生懸命踊ってくれているっていうのが、うれしかったですね。
―中学校の林間学校の時に、クラス対抗で「ビューティフルサンデー」のオリジナルの振り付けを考えて、キャンプファイヤーで踊るっていうのがあって、クラスのみんなで振り付けを考えて踊ったっていう記憶があるんですよ。
それもやっぱり伊丹で「ビューティフルサンデー」が踊られているというところからなんですかね?
―そうだと思いますよ。盆踊りといえば「ビューティフルサンデー」ということでね。
でもそれはうれしいですよね。
―それくらい伊丹で「ビューティフルサンデー」が親しまれているということなんでしょうね。
その時の映像とかって残ってないんですか?
―さすがに40年ほど前のことなので、残ってないでしょうね(笑)。でも、もしかしたら今でも学校でやっているところがあるかも知れないですね。
ボクも実は初めて紅白歌合戦に出ることが決まった時に、振り付けを自分で考えたんですね。大した振り付けじゃないんですが。でも誰でも簡単に踊れる振り付けがあるといいですよね。
―去年でもDA PUMPの「USA」が流行りましたけど、やっぱり誰でも覚えられる振り付けがあると、広まりますよね。
ホントにそうですね。
―1年目の時、僕も一緒に踊らせてもらったんですが、普段は櫓の周りで一重二重くらいの人だけが踊っているだけなのが、あれだけのたくさんの人がそれこそ七重八重の輪になって一斉に踊っている光景を見て、僕らもちょっと感動したんですよね。
昨日も多くの方が踊っておられましたよね。ボクも驚きました。
―実は「ビューティフルサンデー」ってオーソドックスな踊りのほかに、何パターンかの踊りがあるらしいんですよ。
そうなんですか?
―自分なりにアレンジしている人もいるようで、若い人などで普段の3倍くらいのスピードで踊る人もいらっしゃるんですよ(笑)。
そうなんですか?若い人の発想力っていうのはすごいですねえ。
―実は伊丹に最近来た人とか、もう踊りを忘れてしまったという人も多かったそうなんですが、田中さんが来られるということで、いろんな人が踊りの動画をアップロードしたり、各地で踊りの講習会などを行ったりしたらしいです。
そうなんですか。
―なので、田中星児さんが来られるのをきっかけに、再び「ビューティフルサンデー」が伊丹の皆さんに知られるようになったという面もあったんじゃないかと思います。
実はボクは4年来ていますけど、いまだに振り付けを覚えられないんですよ(笑)。
あの振り付けって分かります?
―僕はね、やっぱり踊れますね。小学生の頃から盆踊りの練習とかで踊っていたので。4年前に来られる時に久しぶりに踊ってみたんですけど、やっぱり覚えているものですね。ちょっと練習すると「ああ、これこれ、ここでおしり振るんだ」っていう感じで(笑)。
誰かに振り付けをイラストとかで解説してもらいたいんですよ。ここでジャンプ、とかね。
ボクあんまり踊り得意じゃないんですよ。昔NHKの音楽番組に出ていた時も、間違っても分からないように、いつも画面から切れるところで踊っていたくらいで(笑)。
―あの踊りって7小節で1回転するので、ちょっとずつずれていくんですよね。そこが難しいところというか。
ちゃんと8小節にしてくれればいいのにね(笑)。
―それがまた面白いところではあるんですけどね。よく考えられてますね。
確かにそうですね。何とも言えない踊りの形というかね。
もうちょっと分かりやすく、例えば4小節くらいに踊りを分割して、最後に全部つなげて解説してくれる動画をアップしてくれると、ボクも覚えやすいんだけどなあ。
―わかりました!それはちょっと考えます(笑)。
いくつか動画があがっているのを見たんですが、みんなが一斉に踊ってたり、断片的なものが多いんで、なかなか覚えられないんですよね。
―じゃあ、今度田中さん向けに踊りの解説動画を作ってアップするというのを考えたいと思います!
あんまりテンポアップじゃないもので、ボクでも覚えられるものをお願いします(笑)。
「ビューティフルサンデー」のヒットは「海外ロケ」からだった
ーところで「ビューティフルサンデー」を最初にリリースされたのは何年前だったのですか?
昭和51(1976)年ですね。今から43年前ですかね。
―この曲、もともと洋楽のカバーですよね?歌われるようになったきっかけは何だったんですか?
TBS(MBS)系テレビの「おはよう720(セブンツーオー)」という朝のワイドショー番組の中で、海外取材をするコーナーがあったんですね。東京を出発して、ポルトガルのリスボンに着いて、そこから車でヨーロッパを回って、ソ連(当時)から横浜港へ船で帰ってくるというルートだったんです。
見城美枝子さんや五木田武信さん、当時MBSアナウンサーの斎藤努さんなど、一つの国を一人が回るという企画で、その中でボクはユーゴスラビアの担当だったんです。
その前のフランス、ドイツあたりで、ドライバーの人がいつも車でダニエル・ブーンの「ビューティフルサンデー」をかけていたんです。当時はまだカセットテープでしたね。
朝、まだ体が寝ているときにこの曲を聴いたら、さあやろうか!という気持ちになって、調子が良くなるねってスタッフの中で評判になって。じゃあ番組のテーマソングにしよう、という話になって、途中から番組のテーマ曲になったんですよ。
―へえー、そうだったんですか!?
これが番組で流れ出してから、視聴者にも評判になって「レコードが欲しい」という声が多くなり、急遽レコード発売をすることになったんです。番組でレーベルを立ち上げて。そうしたらあっという間にオリコンの1位になっちゃったんですね。
昭和51年の3月にダニエル・ブーンのレコードが出るんですが、曲が評判になりだした頃に、ボクのユーゴスラビア編が放送になったんです。月~金の枠で2週間の放送でしたね。
ボクは「オー・マリヤーナ」という曲をユーゴで覚えて帰ってきて、この曲も結構評判が良かったんです。そこでA面を「オー・マリヤーナ」にして、じゃあB面は「ビューティフルサンデー」にしておこうということで。
そのころみんな「ビューティフルサンデー」のレコードが欲しいということで、ボクの方も急遽レコード盤を作って、ほかのレコードのプレスも全部ストップして、ダニエル・ブーン版と同じ3月に間に合わせるために1か月間でプレスしたらしいんですよ。そんなことめったにないらしいんですがね。
それでほぼ同時に発売したんですが、当然、日本語で歌っているのがボクのしかないから、ついでに売れた、みたいなね(笑)。
―へえ~、すごいですね!
ホントにあれはびっくりしましたね。レコード屋さんに行ってみたらポスターも貼ってくれていて、レコードもいっぱい置いてあるわけですよ(笑)。
放送の力ってこわいなあって思いました。テレビの影響はすごいですね。
―最近はCMやドラマのタイアップの曲が多いですが、そのはしりみたいな感じですよね。
番組自体はバラエティじゃなくて、報道番組だったんですよね。スタッフもお金儲けとか、全然頭にない人ばっかりでね。そういう番組からヒット曲が出たっていうのを誇りに思っているんですよ。
―商品でもそうですけど、何気ないところからヒットって生まれるものなんですね。
音楽なんかでも、いいなあって思ったものに、みんなが共感して火が付くというのが、面白いなあと、ヒット商品でもやはり目の付け所が違うというかね。
―売ろうとしたものは全然売れなかったりね(笑)。ところで、「ビューティフルサンデー」は昭和51年にリリースされたのですが、僕の記憶ではそのすぐ直後くらいにはもう盆踊りで使われ始めていたと思うんですよね。
伊丹の民謡協会の小野さんが尼崎で踊っていたのを見て、伊丹に持ってきたというお話を伺いました。
―そうなんですよね。それにしても曲が発売されてすぐに盆踊りになるっていうのも面白い話ですよね。
田中星児さんのルーツは「のど自慢」
―田中星児さんご自身のこともいろいろと伺っていきたいと思うのですが、ご出身はどちらなんですか?
奈良県の御所(ごせ)市というところです。小学校3年生まで住んでいました。
―関西のご出身なんですね。そのころの思い出というのはありますか?
周りは全部田んぼで、その向こうに当時の国鉄(現JR万葉まほろば線)が走っていて、夜になると汽笛が「ポーッ」と鳴るのを今でも覚えていますね。
で、田んぼの中を通って、小川を渡って、線路まで行くと、遠くまで来たなあって子ども心に思うわけですよ。
あの頃は川でメダカをとったり、トンボをとったり、自然の中で遊んでいましたね。あと、夏はホタルがたくさんいてね。夜に家の近くの田んぼに行くと、あたり一面ホタルでパーっと明るいわけですよ。よくみんなでホタル狩りに行きましたね。
―自然の中でいろいろな経験、体験を積まれたということですね。
そうですね。ホントに何もない時代だったからね。
―やっぱりラジオを聴いたり、テレビもよく見られていました?
そうですね。テレビはボクが幼稚園の時にできたんです。でもその当時はテレビは高くて誰でも買えない時代で。
父親が近所の電気屋さんからテレビを借りてきて、3日間ほど置かせてもらえるというので、家に置いたら、近所の人がみんな見に来るわけですよ。
相撲中継とかを見て楽しんでいたんですが、3日くらいしたら電気屋さんがテレビを持って帰ってしまって、その時は寂しい思いをしましたね。
あとはお金持ちの家の人がテレビを買ったと聞いて、ボクもその家に見に行かせてもらったんですよ。力道山とルー・テーズのプロレスの試合でした。
あとは父親が音楽の教師をしていた関係で音楽が好きだったので、ウィーン少年合唱団のコンサートがテレビで放映されたときに見に行きましたね。
―歌は小さいときからお好きだったんですか?
父親が近所の子どもたちを集めて、童謡やコーラスを教えたりしていたので、ボクも一緒に歌っていましたね。父親はピアノやバイオリンなども教えていたので、いつもそこで遊んでいました。
―それでやっぱり歌は面白いなあ、と思われて歌いだしたという感じですか?
いやあ、それは全然考えないで歌っていましたね。
―田中さんのデビューのきっかけというのは何だったんでしょうか?
中学生から高校生くらいの時に、テレビなどで「ジャズトーナメント」とか「サンテ10人抜きのど自慢」とか、のど自慢の番組が多かったんです。
高校生の頃はそういう番組で、エルビスプレスリーの歌とか、橋幸夫さんや舟木一夫さんの曲とかを歌って予選に出たのですが、予選は500人くらい来てそのうちテレビに出られるのは5人くらいだけなので、大体4小節くらい歌ったら「はい、ありがとうございました」ってね(笑)。終わりなんですよ。参加賞の目薬もらってね。何度も受けるから目薬ばっかりたまりましてね(笑)。
でも何か月かしたら一次審査くらいは通るようになって、そこから半分くらいにまで残るようになって、20人位、10人位にまで残るようになって、そしてだんだんとテレビに出られるようになってきたんです。
番組に出られると、当時はカラオケじゃなくて、フルバンドで歌わせてもらえるんですね。
レコードと同じ伴奏で歌わせてもらえるというのが嬉しくてね。何回も出ていたんです。
―それはすごいですね。
当時、西条凡児さんが司会をされていた「素人名人会」にも出ましたからね。ギターを弾いてね。
―へええ~!そうなんですか?
今でも覚えていますけどね。当時は確か映画館の隣の劇場で収録していました。
―確か当時は「うめだ花月」じゃないかと思います。
(注:当時の「うめだ花月劇場」は地下に映画館がありました)
それに出させてもらった後、映画館で「サウンド・オブ・ミュージック」を上映していて、見て帰った覚えがありますよ。
その後何年かたって、番組の何周年記念か時に呼んでもらって出たことがありましたね。
それと「サンテ10人抜きのど自慢」の時は、優勝賞品が世界一周旅行だったんです。
―へえ~、世界一周ですか!?
ところがその後スポンサーが変わって「ナショナル10人抜き~」になったんですけど、そうしたら世界一周から家電製品100万円分に変わったんですね。そうしたら賞品にカラーテレビも入っていて、ちょうど姉が結婚したので、カラーテレビだけを家に残して、あとの電化製品を全部姉にプレゼントしました(笑)。
その頃は色んなのど自慢番組に出ていたんです。高校3年生の時に「ホイホイ・ミュージック・スクール」という日本テレビの番組に出ましてね。3人だけが番組に出ることができて、その3人の中で視聴者からの投票が一番多かった人だけが合格になって、芸能プロダクションにスカウトしてもらえるっていう番組だったんです。ボクは3回目くらいに合格して、東京のプロダクションにスカウトしていただいたんです。
それから度胸をつけるために、ジャズ喫茶などで歌いながら歌の修業をして、名前が少しでも知られるようになったらレコードを出しますから、ということを事務所の社長に言われて。ところが1週間くらい歌ったら声がつぶれてしまったんです。そこで社長に「すみません。もうやめます」って帰ってきちゃったんです。
―ええ!?そうだったんですか?
あの時もうちょっと頑張っていたらよかったんですけどね。
その後、法政大学に合格して東京に出てきました。その頃は歌手になりたいと真剣に思ってはいなかったんですが、歌が好きだったから、大学に入ってからも歌の番組に出続けていたんです。
その頃NHKで「ステージ101」という番組が始まって、40人くらいの若い男女が歌って踊るという番組だったんです。始まった時はスタジオに一般のお客さんを入れていたんですね。それで「ああ、番組を見学できるのかな」と思ってNHKに電話したら、担当のディレクターさんが電話に出て、見に来てもいいですよ、と言っていただいたので、NHKの放送センターに行って、受付でそのディレクターさんの名前を書いてスタジオに入ったんですね。そうするとお客さんが誰もいないんです。
―え?どうしてなんですか?
最初の放送だけお客さんを入れていたそうなんですね。それでスタジオの隅で台本を見せてもらって、台本には歌の歌詞とかカット割りなんかが書いてあって「こんな台本でやってるんだなあ」って思ってね。一生懸命歌詞を写したりして見ていたんです。
それから半年くらいかな、毎週見に行っていたんです。それで大学4年生だったかな?考えたら4年生だったんですね(笑)。
番組の人から、何人かメンバーが辞めるから、オーディション受けてみるか?いうことになって、受けてみたら通ったんですね。たくさん受けていたんですが、3人だけ合格して。ボクは歌だけで通ったみたいなものですけど(笑)。
受かった後も半年間はメンバーの後ろでコーラスや踊りの勉強をして、ようやく11月3日にメンバーの一員として紹介されたんです。
これがボクのデビューですね。
―やはり田中星児さんが一番有名になられたというのは「おかあさんといっしょ」の「うたのおにいさん」だと思うんですが、「うたのおにいさん」になられたきっかけというのは何だったんでしょうか?
「ステージ101」に出るようになったんですが、ボクは他のメンバーから半年遅れだったので、いつまで経ってもバックコーラスとかばかりなんですよね。ソロでなかなか歌わせてもらえなくて。踊りもあんまり得意じゃないし。
早く1人で歌いたいなあ、と思っていたら、加入して2年経った時に「おかあさんといっしょ」のオーディションがあるというチラシが回ってきたんです。当時2人いたうたのお姉さんのうちの1人が辞めるということでね。そのオーディションでも事務所やプロダクションからたくさん来ていたんですけど、見事に合格して、「ステージ101」と「おかあさんといっしょ」両方やることになったんです。
「おかあさんといっしょ」では当時、「うたの絵本」という7~8分くらいのコーナーがあって、そこで毎回3曲くらいの歌をピアノの伴奏で歌っていたんです。
そこで「北風小僧の寒太郎」とかがヒットして、すると「ステージ101」の方でもソロで歌わせてもらえるようになったんですね。
本当に何がきっかけになるかわからないですね。
―やはり田中星児さんといえば「うたのおにいさん」という印象が強くて、僕自身も子ども時代に「おかあさんといっしょ」を見てましたからね。印象が一番ありますね。その他にも田中さんといえば「おもちゃのカンヅメ」のイメージも強いですね。
さくらももこさんが以前、雑誌の女性の方との対談記事で、自分の子ども時代に「おもちゃのカンヅメ」をもらいたいために「銀のエンゼル」や「金のエンゼル」を集めていたという話をされていて、そこから「そういえば田中星児さんって今どうしておられるんですかね?」ということが書かれていて、それをたまたま本屋さんで読んで、思わず恥ずかしいなあって思いましたね(笑)。
―昭和40~50年代の子どもたちにとったら、「おもちゃのカンヅメ」は夢でしたからね。
あのCM、実は16年間くらいやっていたんですよ。1回撮ったCMを3年間くらい使っていましたね。
伊丹は一体感のあるいい街ですね
ー伊丹のお話もお聞きしたいと思うんですが、伊丹に来られるまで、どんな印象をお持ちでしたか?
いやホントに飛行機のイメージくらいしかなくて(笑)。
―大体皆さんそう言われます(笑)。
空港からそのまま大阪などの目的地に行ってしまいますからね。なかなか伊丹の街を見る機会がなかったですね。
―それはそうですよね。実際に伊丹に来られてから印象は変わりましたか?
一つのまとまりがあるというか、皆さんの一体感があるというか、いい街やなあ、と思いますね。
―ありがとうございます!最近は街もきれいになりましたしね。確かに人の力というのはあると思いますね。ちょうどいいくらいの街なんですよ。
本当にそうでしょうね。
―伊丹は「伊丹ふれあい夏まつり」だけじゃなくて、各地域で夏まつりや盆踊りを行っているんですよ。今後機会があれば、伊丹の色んな夏まつりで歌っていただけたら、皆さんも喜ぶんじゃないかと思うんですよね。
ボクもいつも伊丹小学校ばっかりで歌わせてもらっているので、違うところでもやってみたいですね。全部回れたらいいですよね(笑)。ボクも体力がだいぶんなくなって来ているので、早めにやりたいですね。
―じゃあ、何回かに分けて回っていただくとかでどうでしょう(笑)。伊丹には17の小学校があって、ほとんどの校区で7月の末から8月にかけて毎週のように盆踊りをやってますんで、そういう所でも歌っていただくと、その地域の方々もすごく喜ばれると思うんです。
そうですね。ぜひ回らせていただけるのなら回りたいですね(笑)。
最近東京の方でも敬老会の集まりなんかで呼んでいただいて、そこで皆さんと一緒に歌ったりしているんですよ。自分がそろそろ敬老会に参加しないといけない歳なんですけどね(笑)。
―伊丹にはいいところがたくさんありますので、訪れていただいて、伊丹の街に親しんでいただければ我々もうれしいなあ、と思います。
いいところ、たくさんあるんでしょうね。
それと今日でも、蝉がこんなに元気に鳴いているのを久しぶりに聞きましたよ。東京に30年近く住んでいますけど、最近本当に蝉の声を聞かなくなったんですよ。きょう泊まったホテルの窓からもよく聞こえたんですよ。きっと蝉にとっても住みやすい街なんでしょうね。
―そういえば、1年目に来られた時、田中さんが舞台に上がられる前に、前座で伊丹のミュージシャンが「ビューティフルサンデー」を歌ったのを覚えておられますか?
ああ、覚えてます。グループの方と女の方もおられましたよね。
―ご覧になっていかがでした?
いやあ、びっくりしました。演奏もされていましたよね。
―伊丹は地元のミュージシャンが活躍していて、1年目に歌っていた「ツキサケ」などは地域のお祭りでも「ビューティフルサンデー」を歌ったりしているんですよ。
やっぱりそれぞれの個性があって、その人らしい「ビューティフルサンデー」になっていて、おもしろいなあ、そういう歌い方もあるんだなあ、っていう風にも思って聞いていました。
ああいう若い方が歌うとね、表現や発声にパンチがあって、ストレートに歌われるでしょう?すごく刺激になりますね。
―でも田中星児さんの歌声は今お聴きしても、当時と変わらないのがすごいなあ、と思いました。
いやあ、進歩がないんですよ(笑)。
―いやいやそんなことないですよ(笑)。これからも若々しいお声で活躍してください。
ボクね、去年の5月くらいに心筋梗塞になったんですよ。その時実は我慢して1日遅れてしまったんですよ。手遅れになってもおかしくなかったんですけど、病院に行って検査したら血管が1本詰まっていることが分かって、そのまま緊急手術をしてもらったんです。
だから皆さんも普段から検査はしっかりしておくほうがいいです。
ボクの場合はみぞおちの辺りがすごく痛かったんです。その時はお腹が痛いだけだと思って我慢してしまったんですけど、お腹が異常に痛くなったときなどは我慢せず、どこかが悪いんだと思って、病院にぜひ行ってください。発症してから5時間か6時間までだったら心臓も大丈夫らしいんです。それを過ぎたら危険なので。それをぜひ皆さんにもお伝えしてください。
―僕自身もそういう年齢になってきているんで、気を付けます(笑)。
テレビやインターネットでもよく、こういう症状の時は心筋梗塞を疑えって言ってるのに、自分がそうなったら、疑わないんですよね。
―はい。これからは気を付けるようにいたします(笑)
田中さんも、これからも長く活躍していただいて、多くの方に夢を与え続けてください!
ありがとうございます。
―また伊丹に来ていただけるのを楽しみにしております。本日は長い時間、ありがとうございました!
こちらこそありがとうございました。
田中星児さんテレビ番組出演予定
「おかあさんといっしょ 60年スペシャル」(NHK・Eテレ)
放送場面「♪北風小僧の寒太郎」
8月13日(火)
再放送:8月27日(火)
8:00〜8:24/16:20〜16:44
放送場面「♪地球をどんどん」(体操)
8月14日(水)
再放送:8月28日(水)
8:00−8:24〜6:20〜16:44
前日のお疲れもあったにも関わらず、伊丹に来られるきっかけ、デビューから「ビューティフルサンデー」のヒット秘話、健康に関するお話まで、常ににこやかな表情でお答えいただいた田中星児さんでした。
今後は伊丹小学校以外も回ってみたい、とのことでしたので、今度はぜひウチの地域の祭りでも歌ってもらいたい!という方がおられましたら、ITAMI ECHOまでご連絡ください!全力でコーディネートさせていただきます!(笑)。
最後にインタビューに答えていただきました田中星児さんをはじめ、関係者の皆様へ深く感謝いたします。